予定は変わる。
子どもたちは今晩の19時に帰っていった。
今晩帰ることになるかもしれないということは金曜日の夜から聞いていた。
やっぱりね。
思い通りにはならないものだ。
子どもたちはあっさりしたもので、予定の変更を今朝伝えると、
ああそうなんだーと言って、昨日と変わりなく過ごしていた。
彼らの父親と仲良くやっているのだろう。よかった。
私自身もよくお茶を飲む方だが、子どもたちもよく飲む。
彼らが来ると、何度もお茶を沸かす。
「私はずっと麦茶を作ってるだけな気がするわ〜」と言うと、
「そうですあなたは麦茶を作るために生まれてきたのです!」と次男が言った。
声色も変えて。
なかなか高度なギャグである。
月曜日の朝に迎えに来る予定の場合は、
そのまま子どもたちは学童(児童?)クラブに行くので、2人のお茶だけ用意してほしいと言われていた。
結局水筒には入らないまま、山ほど作った麦茶だけが残った。
子どもたちが帰ってから、まだ片付けられていない段ボールをやっつけることにした。
古い服の箱である。
私の実家に、母が残していった服だ。
私は母と体型が似ている。
私の方が若干背が高くて幅もあるのだが、大体の服は互換性がある。
高校時代は母のお古を着たりしていたので、懐かしい服も見つかった。
また着てみよう。もうおそらくヴィンテージだ。
最後にこの箱を開けたのは、約10年前だ。
20代半ばだった私が、30代半ばになった。
老けて見えるし似合わないなと思っていた母の服が、
今私が着ている服と合わせながら着てみると、違和感なく着れた。
40歳前後の母が着ていた服だもの、私ももうそんな年頃になったのだ。
型は今の流行りのものではないけれど、
好みでない装飾を外したり、肩パッドを外したりして肩のラインを変えてみたり、袖をまくったり、少し着崩してみると、
今の私にちょうど合うように思えた。
どの服も丁寧に作られている服だ。
箱に突っ込んだまま10年近く経っても、あらためて見て、素敵な服だと思えた。
古い服の箱から、私が学生時代に買ったものもいくつか見つかった。
ファストファッションの化繊の安い服は、時間が経つと変色したり、肌触りがごわごわになっていたり、型も崩れていて、もう捨てるしかないなという状態だった。
大量生産、素材にこだわらず、縫製が甘くてもよく、おそらく熟練のお針子なんて雇う気などなく、安い労働力で、廉価であることが何よりとされて作られた服。
学生時代、お金はないけどおしゃれをしたかった私は、そういうファストファッションに大変お世話になった。
でも振り返ってみると、それは本当に何も残らない、失敗の買い物だったと思う。
お金はないけどおしゃれをしたいと思って、
私が古着を買うようになってもう5年ぐらいになると思う。
古着屋に行くことはほとんどなく、もっぱらネットで探しまくるのである。
失敗もするけれど、良いものを探そうとするので、失敗の質は異なる気がする。
例えば、思ったより丈が短かったとか、思ったよりタイトすぎたとか、思ったより汚れが目立ったとか、そういうネットショッピングと中古品につきものの失敗であって、
それさえなければ完璧だったのに、という服が探せるようになってきた。
そしてもう2年ぐらい前から、ほとんど服を買わないでいられている。
古着なので、最新の流行からは外れてしまう。
けれど、それでいいと思えるようになった。
何を着るかは、私をどう演出するのかという問題なのだろうと思うようになってきた。
私は、私の心地よいと思う場で、私の心地よくお付き合いできる人々と、私の心地よいと感じる服を着て、私のやりたい仕事をしてみたいと思っている。
そして私の心地よい空間で、私の心地よい暮らしを作っていきたい。
麦茶を沸かしながら。
古い本を読みながら。