境界

今日も絶対的休日。

天気も良く、夫が子どもたちを遊びに連れて行ってくれた。


私はひとり、レポートから逃避して

昼寝したり本の仕分けに精を出したりしていた。

レポートも提出期限までまだ2週間以上あるのだ。

もうちょっと逃避する予定。


今回のレポートは、精神分析学派の読み解きマニュアルに当てはめたらいいだけ。

今までの心理学実験のレポートは、表計算やらグラフ作成やら、それらのデータから何が読み取れるか考察したりと色々面倒だったが、

今回はそういう面倒くささはない。

ただただ、精神分析学派の人間観に触れるのが嫌だというだけだ。

気合いの問題である。



勉強の役にまったく立たないのに、私が何度も読み返していて、どうしても手放せない本には、

幾つかの傾向があることに気づいた。

・著者がクレイジー

インド旅行記、ロシア(ソビエト)旅行記

・落語関係

網羅しているのが中島らも

次点は大槻ケンヂである。

椎名誠筒井康隆は、上記の2人と比較すると、おそらくクレイジーではない。

その境目はどこかというと、ひじょうに荒っぽく言うとドラッグに手を出すかどうかなのかもしれない。

その超えてはいけない一線を超えてしまうのが、私の定義するクレイジーな人だ。

アルコール依存症の著者も多いが、(中島らももそうだった)アルコールだけではまだクレイジー度合いが低いと思う。

(鴨志田穣の『酔いがさめたら、うちに帰ろう。』は素晴らしい本だった。

アル中文学(?)の最高峰だと思う 笑

今手元に見つからないが、見つけたらこれは残しておく。)


誤解されたくはないので断っておくが、私は法やルールを破ることをひどく嫌う人間だ。

自動車学校の路上研修で、法定速度を頑なに守っていたら、

後ろから追突されるからスピードは周りに合わせて!と怒られた人間だ。

違法薬物に手を出すことや、人に迷惑をかけるまで酔っ払うことは嫌いだ。

もしもルールが現実に即していなければ、正しい手続きを経てルールを変更するべきだと思い、いつもそのようにしている。

私はルール遵守、安全第一の堅物であると思う。


けれども、なのか、だからこそ、なのか

私とまったく違うタイプの著者にたいへん惹かれるのだろう。

ただし、クレイジーかつおそろしく頭のいい人であることも条件だ。

好奇心が理性を凌駕し、刺激を求めすぎたらこうなってしまうのかな、という恐怖を時々感じつつ、

小さな幸せや、読書というわずかな刺激で満足できる自分に安堵する。


おそらく私はクレイジーではない。

しかしクレイジーな側からすれば、クレイジーさに共感して興味を持つくせに絶対に足を踏み出さないあたりが私のクレイジーさかもしれず、

常識的な側からすれば、頑なにルールを守り通すことが私のクレイジーさかもしれず、

何がその境目であるかは定義によるのだろうけれど。