無用の用

今日は絶対的休日。


フロイトの末裔の精神分析学派流の心理検査を受けて、読み方の手引きのさわりをほんの少し聞いて、自己分析レポートを書きかけている。

なんなんだろうか。とても暗い気持ちになる。

もしかして私の人格はよくない傾向を抱えているのかも、と不安になってしまう。

自己分析は当たらないものだと思うけれど、あちらの治療者側には何か確固としたものがあるようで、見透かされているような感じを受ける。

それで私は見透かされまいと抵抗をしていた。

治療者側は知っていて,クライアント側は知らない。

そういう非対称的な冷たさがある。


連休中でオンライン勉強会は休みだ。

自助グループもプチパセージも休み。

アドラー成分が減少中。

やっぱりいつも仲間と学び合っていたから維持できていたのだろう。

しかも精神分析に触れてしまったし、私はひどく勇気がくじかれているようだ。



思い立って本の整理を始めたら、

今まで自分がいかに無駄な本に無駄なお金と無駄なエネルギーと無駄な時間とを浪費し無駄に生きてきたかを思い知らされて、

それでまた落ち込んでいる。

そして必要なものだけでシンプルに生きようと思っても、無駄な本の全ては手放せない自分に気づいて、

それでまた落ち込んでいる。

あと、勉強しようと思って買っただけの本の多さにも愕然とした。


落ち込みたいんなら落ち込んでおけばいいと思う。

振り幅広く本を読んできて、無駄な本をいっぱい読んだことも、きっと私の栄養になっている。

もう私には不要だけれど、ある種の人間知を得たかもしれない。

西原理恵子鴨志田穣中村うさぎから、私は色々学んだのだ。

まっとうに生きるのも逸脱して生きるのも、同じだけ大変だっていうことを。