逆説のストレンクス

今日は絶対的休日。

かなり疲れている模様。

午前中はほとんど寝ていた。


劣等感を正面から見据えることについて、最近よく考えている。

私はプチパセージや自助グループの定例会でさえ、メンバーさんたちの劣等感をそのまま言語化して扱うことが多い。

私の動きはたいへん「あばき」系である。

ただし枠組みはかなり安全に作っている。

枠組みに「おおい」系を担当してもらっている。


枠組みというのは、

場の環境、構造、私とメンバーさんとの関係性、縛り、ルール、などなど、

目に見えるものも見えないものも含めたものだ。

メタから見た現場の状況全てを指しているのかもしれない。


現場でのカウンセリングやパセージの技術自体は、私はなかなかに下手くそであると思うが、

枠組みの作り方と維持の仕方については、上手になってきたように思う。

おかげでどうにかこうにか、治療的な効果が生まれているのだろうと思う。

安全第一の人間であることを、建設的に活かしているのだろう。


「安全第一」というのは私の私的感覚のプラス側だ。

その裏側であるマイナス側は、「危険地帯」だろうか。

なんとなく、空間的に把握しているような気がする。

ここから先は危ないぞ、という勘がはたらくのである。


この勘を常にはたらかせているので、

メンバーさんやクライアントさんを危険な目に絶対に遭わせないように、

安全な枠組みを作り維持することに私はエネルギーをたいへん使う。

その枠組みの中で、そんなにあばかなければ、もっと安全性は高くなるだろう。

しかし、メンバーさんやクライアントさんの学びと成長に、より貢献するためには、あばきが必要だと私は感じている。

というより、今ここではこの方にこれを学んでもらおう、と目標を設定し、そこに向かってすべきことを組み立てていくと、

私は必然的に「あばき」系の動きになってしまうのである。

何故なら私は、「おおい」系の動きを、おそらく学んだことがないからだ。



自分が不安を強く感じ過ぎてしまうということに気づかれたり、

自分がひとつの物事に熱中し過ぎてしまうことに気づかれたり、

自分の感情の起伏が激し過ぎることに気づかれたり、

私のところに来てくださるメンバーさんたちは、とても自己洞察力の優れた方が多い。

そのことに気づかれているということが、まず素敵だなと私は思う。

話はそこから始まる、とも思うからだ。

不安の裏側には先を見通す力や優しさが、

熱中の裏側には集中する力や情熱が、

感情的の裏側には人への大きな影響力や大きな喜びを与える力が、

必ず隠れている。

そのプラス側であるストレンクスを使って私たちは生きている。

不安に感じやすいからこそ、熱中しやすいからこそ、感情的になりやすいからこそ、

その裏側のストレンクスも大きいのだ。

そして、そのマイナス面にきちんと気づいておられるということは、

マイナス面を予測し制御し、訓練して使いこなす可能性があるということだ。



私は言葉にしつこくこだわる。

それがために、私は多くの人たちに嫌な思いをさせてきた。

けれども、言葉にしつこくこだわるからこそ、例えばロールプレイの代替案を、パセージのお作法通りの言葉遣いで出すことができるのかもしれないし、

例えばカウンセリングで私的感覚をじっくり考えて、クライアントさんと一緒に探せるのかもしれない。


私は不器用で無愛想だ。

それがために、私は多くの人たちに緊張感を与えたり敬遠されたりしてきた。

けれども、例えばお世辞を言わなかったり、愛想笑いをしなかったり、そして本当に楽しいときだけ笑ったりするので、

それがかえって人々に安心感を与える面もあるのかもしれない。


危険を避けたくて、言葉にしつこくこだわって、不器用で無愛想な私は、どれだけ成長しても、おそらくは変わらないだろう。

けれども、私はそういう劣等感を持ちながら、そういうマイナスの面があるからこその良さも、

きっとあるのだろうと最近感じている。

どうしようもない私なんだけど、だからこそ、この劣等感を活かせることもきっとあると信じられるようになって、生きるのが楽になった。

「あばき」の先に、そういう劣等感をも含めた私を受け入れる勇気があれば、もっと人は美しくなれると私は信じている。