メタの世界

今日は午前中は入学準備品等を買いに行って、
午後はピアノ教室の送迎、町内会の子ども会総会出席、
夜は野田先生の論文のオンライン勉強会。
かなり活動した。

 

ベイトソンの論理階型の考え方を学んでいると、
自分の今、今の問題に囚われ、振り回されることが少なくなったように思う。
現場レベルで私はたいへん多くの役を演じ、仕事をしている。
それらのメンバーのそれぞれが、ペルソナといえるかもしれないと思う。
(数は一致していないと思うけれど。というのは、ひとつのペルソナがいくつかの役を担っている可能性があるということだ。)
そしてその一段上の論理階型、メタの位置には、そのペルソナたちを眺めている観察自我というようなペルソナがいる。


結局、じたばたしても仕方がないのだろう。
タスクは降りかかってくる。
以前はそれを現場レベルですごい風圧で受けていたように思う。
でも今は、メタのレベルで考えることができるようになったから、
これは世の中にとってどういうことなのか、私には何ができるのか、私の果たすべき役目は何なのか、
現場にいる自分の身体や感情や思考から、少し離れて考えられるようになった。

 

これは感情をないがしろにする方に向いているのではないと思う。
メタのレベルに上がれるようになって、より情的なものを愛しく思えるようになった。
そして情的な物語を、メタレベルでも味わうことができるようになった。
この物語を語るということ、この物語がここで語られる意味、
そういう場の状態までがメタレベルの物語になる。

 

そうやって、メタの上のメタメタレベル、その上のメタメタメタレベル、
論理階型の階段を上っていくことが、原理的にはできる。
世界は入れ子のような構造なのかもしれない。
本の中の主人公が自分が本の中の登場人物であると知ったり、
本の中の主人公が読んでいる本の中に入っていったり。

 


けれどもこの世界がひっくり返っていく冒険は、
一人きりではやはり恐かっただろうと思う。
共に学ぶ仲間がいれば、ベイトソンに世界の果てへ連れて行ってもらっても、置き去りにされないという安心がある。
今まで自分が信じていた世界とは異なる世界観を採用するのはとても恐ろしい。
でも仲間がいれば、楽しみもきっと見つかる。

カウンセリングも、同じことだなと思った。