珠玉

今日はチベット仏教のオンライン勉強会でした。

 

日中はベイトソンゼミのレジュメ作りをしていました。
ベイトソンの話題は縦横無尽。
まつぼっくりのカサのつき方から、シェイクスピアの戯曲まで、世界がどんどん広がっていきます。
それらを使って論を組み立てていくので、冗長に思えるけれど、
それらの「結びつき合い」が見えたときに、もう一度世界が新しく見えます。
大冒険です。

 

私はこうやって自分と世界を冒険をし続けていきたいです。
世界が新しく見えた瞬間、私も新しくなっていると思うのです。
いつまでも、そうやって新しい自分を発見していきたいし、冒険をしていたいです。

 


チベット仏教の勉強会では、我執を手放すための修行について学びました。
私はまずは五体投地に専念しますが、今日知った方法も、もっともな修行だなあと思えました。
価値を減じ我執をなくする、ひとつの方法なのではないかなと思いました。

 

珠は、子どもにとってはただただ美しい丸いものでしょう。ビー玉も珊瑚もラピスラズリもいっしょです。
そこに貨幣的な価値がつくと、珠は我執のもととなります。
資本主義社会は、物に貨幣的価値をつけていく循環を、負のフィードバックなしに加速回転していくからくりです。
現代社会は、物だけでなく、目に見えないもの(情報やサービス)にも莫大な貨幣的価値をつけていきます。
そして貨幣的価値は、いつも、より大きい方が良いという単純な判断がなされます。
けれども、ものの価値は、貨幣的価値だけでは測れないはずです。
それを忘れてしまったから、本当につまらない世の中になってしまったのだと思います。
物語や美しさの存在しない、ニヒリズムが蔓延してしまっているのです。

 


珠は珠。
私はただその美しさを愛でていたいと思います。
手に入らなくても、愛でることはできます。
そうやって愛でることは、たぶん我執(自己執着)ではないと思うのです。