コーヒーとグランドピアノ

今日は午前中にオンライン勉強会、夜にチベット仏教のオンライン勉強会だった。
夕方は、自助グループ活動を拡大していくような、仕事の打ち合わせをした。

 


私は視力が悪いこともあり、あまり観察力がない。
体を動かすことも苦手だ。
器官劣等性についてのアドラーの考え方を学ぶと、
私が1人で空想することが好きだったこと、話すこと聴くことの能力を発揮してきたこと、
それらがまったく理論に沿っていて驚く。

 

私は言葉を使うこと音を聴くことを使って生き延びてきたが、
論理はあまり緻密ではなく、飛躍が大きい。
これは私の弱みでもあるが、強みとしては、アナロジーを使えることだ。
ある発想と、ある発想から、新しいものを生み出すのが何よりも面白いと思う。


もうひとつ私の特徴としては、嗅覚が優れている。
実際の匂いにも敏感に反応するが、
醸し出される空気やその場の雰囲気、あるいはチャンスや危険なども嗅ぎ分けて、
自分の嗅覚を信じて、自分の行動を判断してきた気がする。
今日も、その嗅覚を信じて良かったと思った。

 


私はアドラー心理学を広めようと努めているが、
アドラー心理学を知ってしまうと、相手を支配したいという野望を打ち砕かれる。
何かを変えたいのならば、相手ではなくて自分を変えなければいけないと気づいてしまう。
そういうことに気づいてもらえるように、自助グループでもプチパセージでも、私は本気を出してしまう。
そうやってるとお客が減るって知っているんだけどね。
でも、「人間関係が不思議とうまくいく魔法のような心理学です」、とは私にはとても言えない。
世の中に迎合して、口当たりの良いことを言って、
そうやって広まるものは、アドラーが批判したものに成り果てているのではないかと思う。
自己執着を覆い隠して、自己欺瞞を強めることを許容してしまうように思う。

 

 

野田先生から、私は温度が高すぎる、熱すぎますよと忠告された。
もっと温度を下げないと、パセージのメンバーさんたちがやけどしちゃいますよって仰った。
確かにあのときの私はとてつもなく競合的だった。
今はパセージリーダーとカウンセラーの役でいるときだけは、競合性から脱せるよう少しは成長したし、
メンバーさんやクライアントさんをやけどさせない技術を身につけた、と思う。
けれども、それはたとえば熱々のコーヒーを少し時間をおいてから提供する、というような温度の下げ方だ。
コーヒーの濃度も香りも変わらない。

 

私は、熱々のコーヒーに水を注いで、薄めて冷ましたものを提供する気はない。
もしかすると、量も増えるし、苦味も減るし、それが飲みやすくて良いという人もいるのかもしれない。
砂糖もミルクもたっぷり入れて、子どもも飲みやすいですよっていう宣伝文句もついているかもしれない。
でも、それはコーヒーなのだろうか。
もはやコーヒーの香りなどしないだろう。
その飲み物を良いとか悪いとか、もう私は言わない。それは私には判断できない。
でも、それをコーヒーという名前で呼ばないでほしい。

 


アドラー心理学なんてマイナーなものだ。
グランドピアノを買おうという人がほとんど存在しないようなものだ。
だけど、私はグランドピアノを売ることに誇りを持っている。
コーヒーは苦いからコーヒーなんだと思っている。
その良さを、同じような価値として大切にしている方たちに届けたい。