悲心

今日は野田先生の論文のオンライン勉強会だった。
勉強会の間は、自分のすべきことをやっていこうと前向きになれた。

 

私の周囲でも、正義を盾にした複数の声の大きな人たちが様々な方法で人を集めて、
ある方針のもとでトップに立って率いておられる方を引きずり下ろそうとする動きがいくつかある。
私はそれらを見聞きすることに多分疲れている。
私にできることは、自分の生活を整え、自分のできる仕事に取り組むことだとわかっている。
その他に大して何もできないことを知っている。


この疲れは、身体を休めたところで取れない類のものだ。
怒りは、もうあまり使いたくない。
多分私は悲しいんだと思う。
信頼関係を前提としないゲゼルシャフトの世界の中で、
このコミュニティではあたたかい信頼関係で繋がっていられると思っていた、ゲマインシャフトの複数の場で、
外の世界と同じようなことが起こっていることが、悲しいんだと思う。

 

責任を人に問う前に、自分の責任を省みたい。
思い通りにいかないことばかりだ。
でもそれは誰かのせいなんだろうか。
生きていくこと自体、苦しい。
だけどそう信じられることは、とてつもない救いだとわかった。
こんな世の中間違っている、私がこんな目に遭ったのはあなたのせいだ、と言い続けることは、
おそろしく苦しいことだろうと思う。
本当ならこんな不幸は起こらず、幸せでいられたはずなのにと思い込むことは、
現実を生きることから離れていきそうだ。
その起こってしまった不幸と共に生きなければならないのが現実なのだから。


…この私の周りに起こるできごとは、私の内面を映しているのかもしれない。
私に誰かを責めたい気持ちがあるから、私の周りで大切な誰かが責められるのかもしれない。
自分が責められている方が数段ましである。
なぜならこの状態では、大切な人のために私にはできることが何もないからだ。
そして事態はどんどん加速し悪化していく。
この様子を見続けなければならないのが私の苦しみなのか。
それでも、誰かを責める苦しみよりは耐えやすいかもしれない。
あちらの方がきっと辛いのだろう。