ブログを休んでいた間も、年末年始を除いてはオンライン勉強会に参加していました。
先週はほぼ毎日ありました。
私は夜21時頃から23時は、たいていオンラインで誰かとアドラー心理学やチベット仏教の勉強をしています。
コロナ禍のために、対面の講座や勉強会の開催が難しくなったのはとても困ったことではありますが、
遠くの仲間とも、物理的距離を気にせずに繋がろうとお互いに思えるようになったのは、とても良いことだと思います。
そして、みんなで学んでいこうという仲間が私にたくさんいることは、本当に幸せなことです。
もちろんオンラインには限界があります。
実際に会えない状態で、感じ取れる情報はわずかです。
オンラインの私は、どこまでもバーチャルリアリティです。
だけど、それをわかった上で、会えない人と繋がるための次善の策としては素晴らしいものだと思います。
言葉だけは、伝えることができるからです。
言葉に思いをのせることができるからです。
チベット仏教のオンライン勉強会は、チベット仏教の偉いお坊さま(リンポチェ)がお話をしてくださって、それを日本語通訳の先生が解説してくださるという会に参加しています。
私は学び始めたばかりなので、日本語を日本語としてわかることはできるけれど、その意味はわかりません。
けれども、リンポチェのチベット語を聴いて、そして通訳の先生の日本語を聴くと、ああ言葉がわかるということはなんて素晴らしいことなんだろうと感じます。
私は言葉を使うことに能力を特化して、居場所を見つけ、社会に適応してきたと思います。
小さい頃からお話しが上手ねって言われて、本を読んだり文章を書いたり、そういうこと、
私は言葉を使うことが得意だと思ってきました。
そして、話を聴くことも私にとっては得意なことだったのだと最近気づきました。
言葉がわかるということは、私にとってとても大切なことです。
相手の言っている意味がわかるということが、私にとってとても大切なことです。
反対に言うと、相手の言っている意味がわからないというのは、私にとって致命的な危機的状況なのです。
言葉と裏腹の行動をする人。
言葉の通じない人や生き物。
違う言語を使う人。
こういう相手は、私にとって危険だと思い込んでいたように思います。
リンポチェの歌のようなチベット語のお話しを聴いていると、私は胸の奥が熱くなります。
そしてその熱が身体中に広がっていくのを感じます。
私は幼い頃、同じ体験をしていたことを思い出しました。
私の周りの大人たちは、私に向かって、たくさん話しかけてくれました。
愛情たっぷりに、私を楽しませ、私がここにいるという喜びを伝えようと、私に何かを知らせようと、教えようと、
たくさんの良い意図で、みんながはたらきかけてくれました。
でも私は、その言葉も意味も、わからなかったのです。
ただわかったのは、周りの大人たちが私を大切に思ってくれているということ。
ここは私の居場所だということ。
私は、大人たちの言うことを、歌うことばを、わかりたいと思っていました。
そして私が選んだ対処行動は、一生懸命に聴くということだったのです。多分。
私の父はジャグバンドで音楽をしている人です。
父のステージを見に行った楽しい思い出がたくさんあります。
私が幼稚園の頃、父が話してくれたことがありました。
「いつも一生懸命聴いてくれてありがとうなあ。ステージから、美穂の目がきらきら光ってるのが見えるんやで。あんな風に聴いてくれる人、なかなかおらんのやで。」
私にはリンポチェの言葉をわかることはできません。
けれども、私が幼い頃、言葉をわからないまま、愛をもって話しかけてくれた大人たちと同じように、
リンポチェは私のためにもお話をしてくださっているのだと感じました。
それは、親の子に対するはたらきかけとはまったく違って、
砂漠に水を撒くようなことだと思うのです。
そこから芽が出ることなど、奇跡です。
けれども、それがリンポチェの慈悲のお心なのだと、私はそのことだけは感じることができました。
言葉でわかることは、一部でしかないのでしょう。
言葉は所詮は言葉です。
そこにのせた思いは、言葉以上のものです。
けれども、人間は言葉を介さなくては思いを伝えることはできないと、私は信じています。
行動や態度でしか示せない様々なことがあると思います。
生きることは、行動することだと思います。
けれども、それでも、私は言葉の力を信じています。