アナロジー

今日はオンライン勉強会のレジュメを作っていた。
内容を理解しやすいように編集しようと努めるのだが、どう考えてもただただタイプし直しているだけのように思えてくる。
野田先生の論文を正しく理解したいけれど、結局理解は至らない。
まあそんなものだ。
1日や2日で私が賢くなれるわけもない。

 

自分の頭で考えず、ただひたすらに師匠のおっしゃることを理解しようとし信じることも、
賢くなるためにとても重要な側面だと思う。
その一方で、自分の理解や師匠のおっしゃる表面的な言葉を疑うということも、重要な側面だと思う。
この2つの信じることと疑うことは、相反しておりながらどちらも必要なことだと思う。
しかし盲信は世界から自分を切り離すことにつながり、疑念は師匠から自分を切り離すことにつながる。
どちらかだけを選ばないように、常に自分の中で、この両者を研ぎ澄ましていきたいと思っている。


私の大学のときの師は、散歩や気分転換を勧めてくださった。
自分の研究について机に向かって考えて考えて本を読んで文を書いて、
そして生活の中でもずっとそのことについてぶらさげながら、
散歩をしたり友達と話したり、料理したり、お風呂に入ったりしているうちに、
ふとどこからともなく新しいアイディアがやってくるのですよ、と教えてくださった。

 

いわゆるセレンデピティ。
また、そうやってぶらさげながら生活していると、
出会うすべてがその研究に関係して見えてくることが面白くて、
様々な出来事、物事が比喩的に私の前に現れる。
アナロジーもひとつのアプローチの方法である。

 


私は考えが煮詰まったり行き詰まったりすると、師の教えを守り、いつも歩くようにしている。
まったく違うジャンルの本を読んだり、まったく違う考え方の友達と話したりもする。
そうやって、セレンデピティがやって来やすい状況を自分で作る。
そうすると天啓が降って来やすくなる。
不随意運動は、随意運動に伴って起こるのだ、と信じる。


何か良いアナロジーをひらめくと、そこから現実が変わっていく。
世界の方が私に近づいてくる。
そんな世界の転換を、共に楽しんでくれる仲間がいることをほんとうに幸せに思う。
これは逃避ではない。
もうひとつ私が賢くなるために、自分の意識という縛りを破ろうというひとつの努力だ。
そんな比喩という物語の力が、私の現実に向き合うための勇気となる。