弱さのストレンクス

今日は絶対的休日。
昼寝をしたり野田先生の論文を読んだりして過ごしていた。

 

昨日、最近人の良いところがはっきりした輪郭を持ってきたと書いたけれど、
良いところだけでなくて、出来事の構造や人々の意図や、悪いところも
同じように高い解像度で見えてきてしまっている気もする。

 

子どもたちに読み聞かせする物語も、今までただ流れていく物語であったはずが
いちいち私の中に入ってくる。
私が子どもたちに与えた物語は特に、私が好むものだけれど
そういう深い意味もあったのかと、なんて美しい物語なのだろうかと、一人で言葉に詰まってしまったりする。
子どもたちに悟られないように読み続けるという技術を身につけようと苦心しているところだ。

 

あるいは、コーラスサークルに入っているのだけど、
私にとって歌を歌うこともたいへんなことだ。
詞の意味を考えてしまうから。音楽は感情に訴えかけてくるから。
それに、コロナ禍の数ヶ月前に私はコーラスに入ったのだ。
今こうやって仲間と声を合わせていられるということが当たり前ではない幸せだと思えていて、
そう実感すると、コロナ禍の前にみんなで歌った「はたらくくるま」とかでさえも、
今みんなと歌っていて、声が詰まってしまうことがある。
どうしようかと思う。

 

私は弱いなと思う。
感受性が強すぎる。
ああそういえば、思春期によくそういうことを言われた。
大人になる過程で色々な感覚を麻痺させて社会に適応させてきたのだと思う。
恋に没頭したり、友だちと遊んだり、お酒を飲んだり、それから学問をしたり。
そういう私の私的な私的な生活だけが世界だった。
世界と私は切り離されていた。
今、もう一度世界の中に私が組み込まれて、麻痺させてきた感覚が戻ってきたようだ。
最近のパセージは、メンバーさんたちの物語を泳ぐことができて、
涙なしに課題シートが読めなくなってしまったりする。
コース中にも、カウンセリング中にも、感動を抑えられなかったりする。
どうしようかと思う。

 

この状態の私で、この暴力的な社会の中で適応していくには、
もう少し時間がかかるかもしれない。
もしかしたら、適応できないままでこうやって嵐を感じながら生きていかなきゃいけないのかもしれない。
まあでも、それでもいいかもしれない。
私はおそらく昔のように不用意に誰かを傷つけてしまうことはないだろう。
私のこの弱さで誰かの役に立てるのなら、弱いままの私でいてもいいだろう。