役に立つために

ここ数日は本業(母親業)が忙しかった。
これも限りのあるお仕事なので、私にお役目がある間は喜んでさせてもらおうと思う。


今日はオンライン勉強会だった。
これから野田先生の論文を読み込んでいくことを目標にした。
一緒に学ぶ人が変わると、私の学びも変わると思う。
学ぶことは、一種の化学反応なんだと思う。

 

私は、 人を通してしか学ぶことはできない、と思う。
用語の意味を理解したり、物事の仕組みを理解したり、
そういう人の知恵を介さない理解は、私の人生にはあまり関わらない知識だ。

私が言う学びとは、知識ではないのだと思う。
用語の意味は、厳密に考えると、人によってそれぞれ異なる。
科学であっても、言葉の定義を厳密にすると、違うものを指していることが明らかになることが多い。
ひとつの言葉を理解するためには、膨大な背景への理解が要る。
どこにも正しい答えは書いていない。
尽くされてきた議論を知ることで、やっとその言葉の輪郭が見えてくるぐらいだ。
学問とは言葉だと思う。
ある場合にはAという定義を使い、ある場合にはBという定義を使う、
そういう説明の仕方は私は好まない。誠実ではないと思う。
私はやはり言葉を世界の入り口とみなしていて、そして世界の中身だと思っているのだと思う。

 

 

 

仲間と学びあっていると、自分のライフスタイルが浮かび上がる。
自分がとても子どもっぽくて恥ずかしくなる。
私はひじょうに傲慢に生きてきたので、たいへん愚かだったと思う。
多くの勘違いの積み重ねで、私の思い込みは出来上がった。
私は話さなければならないと思い込んでいた。
その他に、私は自分の役立て方を知らない。
だから私は、今は黙ろうと決心することにとても勇気がいる。
それは役立たずである自分でいることになるから。
でも多分今までも私は役立たずだったのだ。
私が話さなくてもきっと、みんなうまくいっていたと思うし、
私が話さない方が、みんなうまくいったこともあったのだろう。
私が、自分の言葉のおかげでみんなうまくいったと思い込んでいただけで。
私がみんなの役に立ちたくて、役に立とうと行動していただけで。

 

この「みんなの役に立ちたい」という仮想的目標は、人生目標は、おそらく協力的なものだと思う。
けれど、これは自己執着だ。
なぜなら、私は自分が役に立てていないことに気づくと、とても深い劣等の穴に落ち込んでしまうから。
実際は、役に立てていたと思い込んでいただけで、ずっと役立たずだったかもしれないのに。
だからそれに気づいたことで劣等の位置に落ちるというのはおかしなことだ。
役に立てない自分を認めたくないのだから、役に立つ自分でいたいのだから、
それはとっても傲慢だなと思う。
人は私の手助けなんていらないかもしれないのだから。

私の話なんて聞きたくないかもしれないのだから。

 

様々な原稿仕事をしているとき、必ず途中で私は劣等の位置に落ちる。
そういうときは、どうせこんなもの誰の役にも立たないよなって思うのだ。
そこで、意味のあるものにしようと思って良い文章を作ろうと努めて、
その劣等の位置から這い上がる。
自分で良いと思えるものができたら、きっと誰かの役に立つだろうと思う。
傲慢さの為せる業だ。

 

 

だけど、もう私はこのことに気づいてしまったから、
無意味であっても、誰の役にも立てなくても、
私は私のすべきことをしよう。

 


結局、私は自分の頭の中だけをのぞいていたのだと思う。
今、たくさんの方々と一緒に学ぶことができていて、
すごいスピードで私が変わっていくのを感じる。
誰かに主導権を委ねること、誰かの話を聴くこと、私が黙っていること、
それらは私が絶対にしようと思わなかったことだ。
私が統率を取り、私が話すことが、全世界にとって最も良いことだと思い込んでいた。
よくも思えたな、と今思う。

 

私が本当にみんなのお役に立つためには、もっと賢くならなければならない。
まずは謙虚に自分の小ささ愚かさを認めることだ。
そして、遠ざけていた面倒な勉強に、もう一度きちんと向き合うことだ。
一人では続けられないかもしれないけれど、仲間が一緒だから、きっとできる。