夢うつつ

今日は絶対的休日。1日寝ていた。

充電はそろそろ完了か。
 
 
長い昼寝の間、珍しく夢を見た。
深層心理学であるアドラー心理学は、夢を使ったライフスタイルの分析もする。
私はまったく夢についての訓連を受けていないし、
自分の夢なのできっと外れているとは思うけれど
今の私の状態は良くなっているように感じられる夢だった。
 
大切な人たちが私の周りで楽しそうに立ち働いている。
大きな画面には優子先生がオンラインで繋がっていて
おしゃべりしながら働いている。
私はその空間の真ん中に座っていて、
みんなの気配を感じながら、私はみんなの仕事には口を出さないで
イヤホンから流れてくる野田先生の話をもう少し集中して聴こうとして
目を閉じた。
私の隣には仲間が座っている。
そのぬくもりを感じながら、私は幸せな気持ちでいた。
 
この夢の状況は、私の本当の理想の状態ではない。
みんなで食卓を囲んでいることが私の理想だ。
実現したこともある、私の一番幸せに思う光景だ。
この状況はみんなが同じ場所にそろっていないという点で、
私にとってはとても不幸な状況だ。
だけど、それが仕方のない状況であることを私は知っていて、
そんな中でも幸せだと思えていた、
それが、私の成長だと思えた。
 
また、私がみんなと同じように立ち働けていないことが
 「役立たず」という私の大きな劣等感なのだけど、
役立たずのままで、この空間の真ん中に私は居場所があるということ、
仲間の誰もが私に話しかけてくれる状況であること、
私はみんなの動きをきちんと把握しているということ、
そして今はみんなが落ち着いてできない作業のひとつである、
野田先生の講演を聴くという仕事を、私は取り組むことができるということ、
それは私にできることなのだということ、
そんな風に思えるようになったことが、もうひとつの私の成長だと思えた。
 
 
場面も、私の状態も、私の理想状態とは違う。
けれども私はこの場面でもこの私の状態でも、
幸せだと思えていた。
これは私が現実を受け入れ、その中で目標追求をしていこうと決めた、
そういう私の成長と、健康さの表れだと思った。
 
 
 
私は「役立たず」である私が嫌なのだ。
だから私は何らかの爪痕を残そうと、言葉を使ってきた。
私が目を閉じて口を閉じる、ただ気配を感じながら耳を傾けるということは、
私にとってはとても勇気のいることだ。
私がここに居るということに、それだけでちゃんと意味があると、
やっと思えるようになったのかもしれない。
 
 
家族の中でもそうだ。
元気がないまま、ほとんどベッドの上で寝たりパセージの準備したりしているだけの私でも、
子どもたちは私といることを喜んでくれている。
私がようやく体を起こして料理することを、
喜び、一緒に作ったり食べたりすることを楽しんでくれている。
他のことはもう子どもたちだけで十分にできるようになったけれど、
私を助けてくれるようになったけれど、
そのことに私はもう劣等感も罪悪感も感じることがなくなった。
夫は平日は深夜に帰宅し、週末は帰省したりでほとんど顔を合わせることができないが、
お互いの存在がとても大事であることはわかっている。
この日常を寂しく感じることがなくなった。
私が大した役目を果たすことをできないでいても、
私は家族の中で居場所があると思えるようになった。
 
 
 
おそらくライフスタイルが変化した。
この慣れない靴で踏み出すのは少し恐い。
 
 
ライブで歌ったり演奏したりするミュージシャンたちを、
舞台で落語をはなす噺家たちを、
私は心から尊敬する。
その勇気がほしいと思う。
その割に、舞台に立つことを私は恐いとはあまり思わない。
むしろ好きだ。
だって、舞台に立っている間だけは私は「役立たず」ではないから。
舞台だけが居場所だと思っていた。
すべての場面を、舞台にしようと思っていた。
だけど、舞台に立っていない私でも、黙っている私でも、
私には居場所がある。
そう信じることにした。
 
 
私には仲間がいるということ、仲間を信じるということ、
やっとできるようになってきたのだと思う。
様々に私に関わってくださるみなさま、本当にありがとう。
 
 
 
舞台に立つまでの練習が私にはもっと必要だ。
もっと大きな舞台に立つために。
私は今は黙ることを選ぶ。
より効果的に私を役立たせられるように。