人魚姫

今日はパセージ5章でした。

 

10月18日日曜日は、日本アドラー心理学会総会のシンポジウムで発表しました。
しばらく準備や、終わってからも疲れ果ててブログ書く気力が残っていませんでしたが、もう元気になりました。
ご心配くださったみなさま、様々に私を勇気づけてくださったみなさま、本当にありがとうございます。

 

 

 

私が4歳とか5歳ぐらいのときだったか、昔話のテープがありました。
赤ずきん」とか「三びきの子豚」とか、いろいろあったように思いますが、
「マッチ売りの少女」と「裸の王様」ははっきりと覚えています。

 

私は、「マッチ売りの少女」も、「裸の王様」も、好きではないのです。
「マッチ売りの少女」は、悲しすぎるから。
そして現実から目をそらす物語だから。
「裸の王様」は、醜すぎるから。
そして現実をつきつける物語だから。

 

私は現実を見つめて現実を生きたいと思っています。
けれど、現実は私の想像をはるかに超えて醜いようです。

 

私は「裸の王様」の子どものように、王様は裸だと言いたいのです。
だけど、言ったところで、何も変わらないことを私は知っているのです。

 

「王様の耳はロバの耳」も、辛い物語です。
床屋の気持ちが今の私には身につまされます。

 

いかに私が言葉を使うことをライフスタイルの中心に据えているかがわかります。

 

 

 

私は、「人魚姫」が好きです。
これも、言葉に深く関係する物語です。

 

人魚姫は自分の意志で選択をします。
海の底での平穏を選ぶか、海の上での冒険を選ぶか。
声を選ぶか、足を選ぶか。
愛する人の死を選ぶか、自分の死を選ぶか。
いつもギリギリの選択を迫られ、自分で自分の人生を選んでいきます。
その選択肢はむごいものではあるけれど、
その選択に至った自分の選択の結末なのです。
そして人魚姫は、愚かであっても、
自分の決めたことに責任を持って短い人生を生きました。

 

人魚姫は苦しみ続けたけれど、彼女は幸せであったと、今私は思えます。
だから私は、子どもの頃は理解できなかったこの過酷な物語を、
美しい物語だと思います。

 

人生はそういうものではないでしょうか。
選択肢は、世界から提示されます。
私にはそのむごい選択肢から選ぶという自由しかないのかもしれません。
けれども、私が自分に嘘をつかず、私の意志で選び続けていく限り、
この人生は誰のものでもない。
私のものなのです。