負け戦

今日はアドラーの著作のオンライン抄読会でした。

 

友人と2人でしている勉強会なのですが、定点観測的な報告会にもなっていて、

お互いの仕事で、家族との場面で、

アドラー心理学の実践を続けながら、
お互いにちょっとずつ上手にできるようになったり、小さな成果が出てきたり、
そういうことが感じられるようになってきました。


私はとても不寛容な人間で、
いろんなことに対して良くないという判断を下し、
いろんな人に対して良くないと裁いてきました。
いくつかの早期回想でも、
私がそれは良くないということを相手に伝え、
相手は数人で私を非難し、
私は反論するんだけれど、やがて言い返すことができなくなって、
一人でその集団から去る。
というパターンがあります。
見事に毎回負け戦。
たいてい暴力は使わなかったですけれどね。


小さい頃から、私は強くなりたいと思っていました。
言い負かされてきたからなんだろうと思います。
言い負かせるようになりたかったんだと思います。
今は、アドラー心理学を学んで少し成長しましたから、
もう言い負かそうということを目標に設定しようとは思いません。
陰性感情を抱くと、その目標に向かって走り出しそうな自分がいますが、
すぐに気づいて、せめて非主張的になろうと決めて、
とりあえず黙るという対処行動をとれるようになってきました。
ここ数ヶ月、それをなんとか維持しているつもりです。

 

 

今は、私は十分強くなっているように思います。
というよりも、早期回想の時代から、私は強かったんだと思うのです。
私はたった一人きりになっても、自分の良いと思うものを守るみたいです。
私は一人で決めて、一人で戦って、一人で負けて、
それでも相手になびくことはなかったのです。
その戦いを見守り、私に賛同してくれたと思った人が、
ごめんねと言って私を残して、相手の方へ行ったこともありました。
それで、まったく一人きりになって、
私ってバカだなあと思って、
なんで妥協することができないんだろうって思って、
これからどうしたらいいんだろうかと、

呆然と立っていた場面がいくつも思い浮かびます。
あの公園のブランコの前でも、砂場でも、
中期回想ですが、中学校の音楽室の楽器室でも、廊下の端のピアノの前でも、体育館の隅でも。
…どんだけ戦ったんや私は 笑。

 


私は今、その苦い早期回想、中期回想を味わっています。
私はもう強くならなくていい。十分強い。
おそらくこの強さは、みんなのために役立てることができると思います。
でもとても使い勝手の悪い強さです。
私はおそろしく批判的だから。
気をつけないと、また仲間を失ってしまう。

 


たくさんの仲間を失って、一人きりになった後、
それでも、そのうち私の良いと思うものを良いと思ってくれる人を見つけて、
そういう人たちの中に所属することができました。
例えば中学生1年生のときは、クラスで孤立して、
2年生の先輩たちのグループの中で居心地良く過ごしていました。
中学2年生のときは、クラスで孤立して、
吹奏楽部で練習を頑張って、自分の居場所を作りました。
そうやって、だんだんと他の同級生たちともう一度関係を作っていったりしていました。
でも、もうそんな遠回りしないで、
もっと賢く、みんなと仲良くできる方法を採用してみたいと思います。

 

 

今私は、どうしたら自分を役立たせることができるのか、わからないでいます。

交友のタスクにおいて。
仕事のタスクと愛のタスク(家族関係)では、アドレリアンとして生きていられていると思います。
でも、アドレリアンたちの集まる交友のタスクの場で、
私はどうもアドレリアンではいられていないみたい。