指桑罵槐

今日は1日体力回復に努めた。

 

20世紀初めは、共産主義社会主義というものが生まれた時代だ。

現在チベットウイグルを侵略している中国共産党が生まれたのも、

1910年代のことだ。

中国共産党も、ソビエトコミンテルンから始まった。

共産主義社会主義も、生まれはフランス革命である。

毛沢東は中国人を1億人以上、スターリンはロシア人を何千万人も、

つまりは自国の人々を殺した。

これはヒトラーが殺した人数をはるかに上回る。

(訂正しました。レーニンではなくてスターリンです。レーニンごめんなさい。)

 


ナチスにも当てはまることではあるが、

なぜそれだけの人々が殺されるようなシステムが維持できたかというと、

あらゆる情報統制、宣伝、喧伝、密告の奨励、スパイ活動、

そうやって人々を駆り立てる手法を駆使したからである。

そういった非人間的なシステムを、くつがえすことができないように巧妙に作っていたからである。

 

人間は所属することが究極的な目標であるとアドラー心理学は教える。

所属のために、人は非道にもなれる。

所属のために、人は現実を見ようとする努力を放棄し、

自分の理想とする幻想を信じようとする。

善良な人々は、まさかそんな恐ろしいことが起こっていようとは信じられず、

無邪気に「大本営発表」を信じ、

その社会に適応し所属しようとすることで、

真実を語る迫害されている人々の声から耳をふさぐ。

人々は自分と同じように善良であるものだという、

根拠のない理想の確信を強める情報だけを集める。

 

 

アドラーは目を覚ませと言ったのではなかったか。

私たちはいつも、「かのように」の世界で生きている。

降りかかってくるタスクから目をそらすことを神経症という。

その人の言葉ではなく、その人の行動を見よと言ったのではなかったか。

 

 

よい人間関係を築くためには、相互尊敬、相互信頼、協力、目標の一致が必要である。

そういう構えで、人々と話し合い、共に仕事を成していかなければならない。

だけど、臨床的枠組みを作れない人々との間には、

治療的関係を持つことはできないはずだ。

相手が私を憎んでおれば、私はその相手を勇気づけることも、相手と協力することもできない。

私はすべての人々とよい関係を作ることなど、絶対にできないと思う。

それは仕方のないことだ。

私は菩薩ではないから。

私は小さな人間だから。

 

だから私は、すべての人が自分と同じほどに善良であるとは信じない。

自分が善良でありたいけれど善良ではないことも認めた上で、そう思う。

すべての人が仏さまを信じ、神さまを信じていると信じた善良な人々が

私なんかよりはるかにはるかに善良な人々が、

歴史上でどれほど虐殺されてきたかということを、考えてみたい。

私はそれは、虐殺する善良でない人間たちの問題だけだとは思えない。

彼らとて、完全に善良でないわけでもなかっただろうと思う。

自分の信じる「かのように」以外に目をつぶり、相手を人間として想像することを放棄した、

そういう神経症的イリュージョンの中で生きていたというだけだと思う。

そして一方では、善良な人々が、自分の「かのように」の世界を超えられなかったことにも問題があったのだろうと思う。

 

 

すべては自分の思い込みの世界だ。

私は、目の前の人の信じている世界さえも、理解することができない。

ましてや、私がよいと思うものをよくないと思う人たちのことを、

どうやって慮ることができるというのか。

その人々が善良でないかどうか、そういう問題の立て方ではなく、

私たちは自分の「かのように」を盲信しているのではないかという問題である。