必需品としての娯楽

今日も体を休める日。


私の娯楽をもうひとつ書き忘れていた。落語だ。
もともと父が落語好きで、私も好きだった。
でも本格的に落語を聞き始めたのは、大学時代からだ。

 

ひとり暮らし、しかも両親が離婚したてという危機的状況で始まった新生活は、
友人を作ること、自分の自由なお金を稼ぐこと、それが私に必要なことだと思え、
そのためには人と交わり、情報とバイトのコネを入手するために
各サークルが行っている新入生歓迎イベントに参加することが必要だと思った。
それで落語研究会に行ったのだった。

さっそく落語を愛する芸達者な、同郷の先輩とおつき合いするようになり、
落語を極める気のない私はサークルには入部せず、
彼を通してたくさんの落語の音源・映像に触れた。
あのときの私に落語は必要不可欠だった。
ひとり暮らしの見慣れない部屋で、上方落語の関西弁が私の心を慰めてくれた。
このとき、やはり私は聴覚型だなと思ったのだった。
桂米朝桂枝雀桂吉朝桂小米朝(現在は米團治)、
当時お世話になった落語家は、もう米團治以外はご存命ではない。
もっぱら懐かしい言葉を必要としていた私は、
上方落語のみを聞いて、読んでいた。

 

大学3年生になって学問の世界に片足を踏み入れるようになって、
もう私は落語を必要としなくて良くなった。
そこで私にとって落語は娯楽になった。

 

江戸落語を聞くようになったのは、
なんのきっかけだったか、結婚して長男が生まれてからだ。
たまたま立川談志の落語を聞いて、これはすごいと思ってはまった。
古今亭志ん朝も聞いたけれど、それは談志が良いと言っていたからだった。
談志の書いた本をたくさん読み、図書館の奥に眠る立川談志落語全集もかなり読んだ。
談志が私の敬愛する西部邁と談話するネット番組を見つけて、興味深く観た。
私が談志の落語を聞き始めて、その1年後ぐらいに立川談志が他界した。

 

 

芸というのは、伝統の土壌の中からしか実らないのだけれど、
とても属人的なものだと思う。
私は上方落語ならば桂吉朝江戸落語ならば立川談志(の60代前後のある時期)の落語が最も好きだ。
吉朝と談志が亡くなってから、

私は落語にもう以前のような情熱を持てなくなってしまった。
芸というのは、代わりのきかないものだ。
「この人」の芸でなければ。
同じ落語を別の人が演っても、それは私にとって違う意味を持つ。
そのような芸をわかることができたことは、私の幸せだと思う。

けれど、もう今の世間は、そのような芸を育むような容れ物ではないように思う。
私はそういう意味でも現代に絶望している。

 


コロナ禍で家に閉じこもっていた時期、
私は子どもたちと一緒に桂枝雀の落語をたくさん見ていた。
子どもたちは枝雀の落語も枕も気に入り、真似し始めた。
子どもたちに私の大切にしていることが伝わったと実感できたのは、
私の場合枝雀のおかげで、
それからは時事的な話でも国家観でも、日本人としての生き方も、
私は私の価値観を子どもたちに伝えることができるという自信も持てたし、
未来に対して絶望しきることなしに考えることができるようになった。


落語は、ほんっとうにしょうもないものもあるけれど、
人間にとって深いテーマもあり、文学として素晴らしいものもある。
驚くほど雑多な内容である。

 

なぜ落語を思い出したかというと、
昨夜『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』を読み終えたとき、
同じモチーフが「たちきり(立ちぎれ線香)」という落語にあると気づいたからだ。
上質な文芸は、洋の東西も時代も問わない。

大家の世間知らずの若旦那と、初々しい芸妓の恋を、
裕福な商人の世間知らずの跡取り息子ヴィルヘルムと、初々しい女優の恋を、
将来にとってよくないものだと思う家族たち。
番頭が、商人の仕事を手伝う友人が、
色街の恋は遊びであって本気にしてはいけないと諭し、
若者を3ヶ月近く恋人から隔離し、
恋人から毎日毎日寄越される手紙をすべて、
黙って自分の手元に置いたり、突き返したりする。
恋人からの最後の手紙は死の予感で終わる。
若者は、恋人が自分への恋患いで亡くなったと
恋人の世話をしていた年かさの女から聞かされるのだった。

 

あまりの一致に、驚いた。
ゲーテがこの小説を書いたのは1796年頃。江戸時代真っただ中だ。
元になった物語は同じだったのかもしれない。