調律師

今日は夜に野田俊作ライブラリーのオンライン勉強会があります。

 

今日は、原稿仕事がほぼ完成しました。

次号の『アドレリアン』に載る予定です。

 

『アドレリアン』というのは、日本アドラー心理学会の学会誌です。

学会員になると、年3回発行される学会誌が届きます。

ときどき私も書かせてもらっています。

関心のある方は、よろしければどうぞ会員になってみてください。

コロナ禍のため、今年は会員数が激減しているそうです。

会員が少なくなっても、日本アドラー心理学会非営利団体なので存続することはできますが、

アドラー心理学を普及していく活動の幅が狭まってしまう可能性があります。

また、将来的に会員がいなくなってしまったら、日本国内でアドラー心理学を伝えていく組織がなくなってしまうことになります。

私は日本アドラー心理学会の有資格者として、会員を増やす努力をしていく責任があると思っていますので、

あまり意味はないかもしれないけれど、いつもこうやって、あちこちで宣伝しています。

 

 

 

ここ数日早期回想にまつわることを書いてきましたが、

新しい自分に気づいてびっくりしています。

私は自分の子どもたちと一緒に遊ぶよりも、子どもたちの遊びを眺めているときの方が楽しいです。

あるいは、私が用事をしている横で、子どもたちが遊んだり、ときどきおしゃべりしに来てくれることが、居心地がいいです。

そういう、言うなれば中間子的な性質が、私にもあったんだなあと気づきました。

グループを率いていく強烈な長子的性質だけじゃなくて、

私には他にも色々な可能性があるのかもしれないと思えました。

 

私の子どもたちは、とっても自己主張の激しい子たちなので、

私は安心して任せていられます。

自分たちでしたいことを、楽しみを見つけてくれますから。

私の親としての役目は、何かを与えたり教えたりするよりは、どちらかというと、

制限をすること、制御を身につけてもらうよう働きかけることが多いです。

パセージのおかげで、やっと相談して協力し合える関係になってきたかな…。

 

 

私は支配的な親でした。

私が一番正しいと思っていました。

そうすると、自分が正しいと思っている長男とは、特に衝突が起こりました。

恒常的な権力争いの構造から抜け出すためには、

長男の話を聴くことが、とても重要でした。

 

それで、私には支配的な長子の性質だけじゃなくて、

みんなの周辺で静かに楽しむという性質もあるのだと気づけたことは、

とても役に立つことだと思ったのです。

無理してしゃべらないようにしようとしなくても、

私は舞台の中心から、すっと舞台袖や照明の持ち場に行けるんじゃないかな、と思います。

それは、自助グループの場面だけでなくて、

子どもたちとのつき合いや、それから夫の実家での振る舞いについても、活かせるように思います。

 

 

 

学ぶことは、個人個人が決めていくのです。

それがアドラー心理学の面白いところで、素敵なところだと私は思います。

そして学んだことは、私のライフスタイルのあらゆるところに染み透っていくのです。

そうやって少しずつ成長していけること、その成長を自分でも実感していけること、

これはアドラー心理学ならではのことだと思います。

誰か偉い先生が、私のライフスタイルを言葉にしてくれるわけではないのです。

私が、仲間と共に、私の物語を書き換えていくのです。

 

 

どんなライフスタイルも偏っていて、完全ではありません。

だけどそういう欠陥を抱えたままの私で、世の中に役立てるように、

学ぶことによってライフスタイルを微調整して、より良いものにしていくのです。

これを、私は調律に似ていると思うのです。

壊れたピアノの修理じゃないのです。

 

私は、クライアントさんの正しい生き方を知りません。

クライアントさんが、その癖のある弦を持ったまま、

その癖のある弦を使って、より美しい音を響かせられるように、

私はお手伝いをしていきたいです。

私は、美しい音をイメージできるようになったから、きっとお役に立てるはず。

先生方の、先輩方の、美しい調律を見てきたから。

その美しい生き方を見てきたから。

私も、調律をしながら、調律をしてもらいながら、

共に美しい音を響かして生きていきたいと思います。