文法問題

今回のパセージのメンバーさんたちは、みなさんとても真面目で、

パセージのお作法通りに実践しようと決心してくださって、

課題シートもたくさん書いてくださいました。

本当に小さいことでも、パセージの言葉の使い方をていねいにされている方の

エピソードを聴いたり読んだりしていると、

子どもさんの対応が激変していることがよくわかりました。

開いた質問、お願い口調、意見言葉、

「今お話ししてもいいかな?」「何かお手伝いすることある?」など、

パセージの言葉を使ってみようと意識して暮らしておられると、

それだけで陰性感情をコントロールできていることも多いように思いました。

 

パセージの短い時間の中では、メンバーさんの物語を味わおうと思うと、

私の力ではなかなか難しくて、右往左往していました。

そこで今回のパセージは、初めから、エピソードを文法問題として取り組んでみようと決めて進めてみました。

何がこのメンバーさんにとっての、この子どもさんにとっての、

より良い代替案なのか、美しい物語なのか、初めはわからなくても、

メンバーさんと子どもさんの適切なところを探して、

みんなでパセージ的文法に手直しをしていくと、

ある瞬間に事例提供さんが正しい語り方をされました。

すると、みんなの焦点が、子どもさんの不適切な行動や失敗から、

メンバーさんが子どもさんに伝えたかったことや、

メンバーさんが子どもさんを援助したかったことへ向いて、

いつの間にか私たちは新しい、より協力的な物語を鑑賞していました。

私の働きかけは、文法のチェックと、

ブレークスルークエスチョンズを問いかけるだけです。

代替案は、私が想像力を働かせて考えるべき問題じゃないんだと、わかりました。

正しい言葉を使うことがこんなにも大きなことなのだとわかりました。

 

 

 

子どもさんの課題を、ほとんど全部手助けをしていたメンバーさんが、

4章でエピソードを出してくださって、

みんなで子どもの課題を共同の課題にできるように、代替案を考えたことがありました。

次の5章のはじめに、さっそくその代替案

「お母さんに何かお手伝いできることある?」を使ってみました、

という報告をしてくださいました。

帰宅した子どもさんの荷物のお片付けという、小さなちいさな場面でした。

そこで子どもさんが、ひとつ自分でできることを見つけられたというお話でした。

ああほんとうに素敵だなあと感動していたら、

他のメンバーさんが、涙を浮かべながら、ほんとうに素敵ですねと言われました。

事例提供メンバーさんも、他のメンバーさんたちも、もらい泣きしていました。

ほんとうにほんとうに、小さなちいさな、毎日の通り過ぎていくできごとの場面、

感情も大きく揺れたりしないし、何か事件が起こったわけでもない。

それでも、私たちはこのメンバーさんのちいさな物語を一緒に鑑賞して、

自分の行動を変えてみようというメンバーさんの勇気と、

そのメンバーさんの新しい行動によって勇気づけられた子どもさんの行動に、

そこに大きな変化を、美しい物語をよみとったのです。

 

 

私が美しいと思うものを、みんなも同じように美しいと思ってくれた。

あのとき私は何も言いませんでした。

私はメンバーさんたちに語ってもらうことができました。

私たちは一緒に美しい物語を生きていました。

 

パセージが最終章を迎えてしまうのは、いつも、

その日を無事に迎えることを願っているはずなのに、

寂しくてたまりません。

だから努めてあっさりと、淡々と終わりたいと思っているのですが、

難関があります。

「私はいつでもあなたの味方です。」

心からそう思います。

みんなが多くの決心をして、実践をしてこられたこと。

そしてそのことをお互いにわかち合い、勇気づけ合ってこられたこと。

先行きの見えない状況でも、落ち着いて3ヶ月もの間、

この日を待ってくださっていたこと。

2回目は声が震えてしまったのがばれたかな。

全員が「私はいつでも子どもの味方でいます。」と力強く宣言してくれました。

何回か、泣き止むのを待ったりしながら(笑)

 

終わってしまうのが寂しいのなら

始めなければいいだけなんだけど、

またあの幸せな非日常の一瞬を味わいたくて、

私は新しいパセージの準備をするのでした。

メンバーさんたちは様々なかたちで、パセージとアドラー心理学をご一緒に学んでいこうと思ってくださっているようです。

だけど、たとえそういう日が来ないとしても、

私たちはずっと仲間です。