糸 

今日はカウンセリングでした。

 

3回目にして、ひとつのエピソード分析を終えることができました。
今日のクライアントさんも、宿題をとてもがんばって取り組んでくださいました。
そのことが、クライアントさんの認知を変え、
アドラー心理学の 新しい方法を実践してみようという勇気を与え、
実践できたことが自信につながるんだなあと感じています。
エピソード分析で、というか、アドラー心理学のカウンセリングで、
一番大切なことは、クライアントさんの構えが協力的に変わることだと私は思います。
構えを変えるために、こちらはたくさんの技と勇気づけを使うのですが、
宿題が大きな役割を果たしていると感じています。


この、エピソードは、たいへん大きな事件でした。
しかもクライアントさんの早期回想も時折思い出され、語っていただき、
本当に深い物語で、これはライフスタイル分析案件なのだろうという
そういうお話でした。
だけれども私にできるのはカウンセリングだけなので、
カウンセリングの技法だけで、
クライアントさんのお役にできる限り立てるようにと努めました。

 

今日、私的感覚を探すときに、
練成講座のときに、クライアントさんの深い私的感覚が現れたのに、
私がそれを受け取らずに、行動に結びつくような具体的なレベルのものを扱ったこと、
そのことによって、クライアントさんの学びが不十分になってしまったこと、
その学びを思い出しました。
本当にありがたい体験でした。
クライアントさんがどう感じておられるのか、ふさわしい言葉は何なんだろうと、
二人でじっくり探してみたい、と思いました。
そして話合っているうちに、ぴったりの言葉を見つけることができました。
クライアントさんのおっしゃった言葉でした。
これまでのクライアントさんの話してくださったことが、すべてつながったと思えました。
とても大きな私的感覚だと思います。
そして、そのプラス側は、なんて素敵なんだろうかと思いました。


このクライアントさんと私はお知り合いではなくて、
カウンセリングを依頼されて初めてお会いした方でした。
カウンセリングを引き受けるかどうか、私に可能かどうかわからないので、
一度お会いしてお話をお聞きして、どうするかを決めましょうとお願いをして、
お話をうかがいました。
そのときに、なんて素敵に共同体感覚を発揮しておられるんだろうと思うお話があったので、
この方であれば、と思ってお引き受けしたのでした。
そのときのお話とも、今日見つかった私的感覚がつながりました。

 

すべてのことがこの一本の糸で縫い合わされたようで、
この方の素敵なところも、強さも、弱さも、すべてをひっくるめて愛(かな)しくて、
早期回想から続くこの方の物語が、ひとつの織物のように見えました。
そのことに、クライアントさんご自身も気づかれ、びっくりされて、
そして、これからどうやっていけばいいのか、その道に気づかれました。
その道を進んでいくためには、もう少しだけ時間がかかるかもしれません。
だけど、きっと進んでいけるという勇気が持てるようになったら、
もうカウンセリングは要らなくなるだろうと思います。

 

こんなに深いところで、人とつながるということ、
これは、本当にすごい体験です。
アドレリアン・セラピーに魅せられています。
ライフスタイル分析を学び、身に付けたいです。
パセージなんか、行動を触るだけですもん。
私が何にも言わなくても、このパセージの型の中で、
メンバーさんたちがお互いに勇気づけ合い、良いことに気づいていかれ、学びが深まっていくという
そういう形式美の面白さはあります。
グループの楽しさもあります。
でも、私は、その人を貫く一本の糸を見つけ、
それがどんな美しい織物を織っているのかを知ってしまったから、
その冒険をもっとしたくてたまらなくなりました。

 

開拓

今日はパセージ第1章とオンライン事例検討会でした。
間に歯医者も行きました。
くたくたです。

でもパセージも勉強会も、とても楽しくて充実した時間を過ごさせてもらいました。
メンバーさんたちがほんとに素敵です。
良いところを見つけて伝え合う場に居れてありがたく思います。

 


今日のパセージのロールプレイ事例は、
1章にしてはヘビーな事例だと思ったのですが、
思い切ってやってみて良かったです。
ガッツのある事例提供メンバーさんが、代替案を実践してみたいです!と言ってくださって、
それもとても嬉しかったのですが、
そういう事例提供者さんを見て、他のメンバーさんたちが勇気づけられていたこと、
そのようにメンバーさんたちが言ってくださったことも、とても嬉しかったです。

初対面の人々の前で、この事例を話されたということにも感動していました。
信頼し合える関係ができたということ、
それが少し私の自信にもなりました。

 


今日の事例検討会で出したエピソード分析のカウンセリングの事例も、
陰性感情マックスの大事件だったのですが、
最終的にクライアントさんの構えが変わって、自分が間違っていたとわかって、
ご自分で代替案を見つけられたものでした。
クライアントさんのがんばりが素晴らしくて、
そのことを勉強会の仲間も、感じてくださったのが嬉しかったです。

 

 

クライアントさんやメンバーさんが成長して、
変わっていかれるのを感じるのが、私はとても好きです。
一緒に変化を感じるときが、とても楽しいです。
それが見たいから、こんな緊張度の高い、私にとって全然安全でないお役目でも、
また次もやろうって思えるのかなと思います。

 

私は安全な道を行きたいと思っていますが、
自分の手に負える安全な範囲が、広がったんだと気づけた1日でした。
陰性感情が大きくても、少しこじれた関係のエピソードでも、
私は私を信じずに、私の学んできたアドラー心理学を信じれば、
必ず援助することができる、有効な働きかけができる、と思えるようになりました。
もっと勉強して、私の安全な範囲を広げていきたいです。

船出

明日からパセージが始まります。

 

毎回パセージの第1章の前はたいへん緊張していたのですが、
今日はそうでもないです。
だって7月からはカウンセリングをたくさんさせてもらってるからなあ…
たいへん度胸がついてきたように思います。
クライアントさんたちに本当に感謝しています。


パセージは、リーダーマニュアルがあるので、基本的なリーダーの言葉は決まっているのです。
そこから外れていかなければいいのです。
メンバーさんたちの発言によって進んでいくワークショップですから、
リーダーはメンバーさんたちが活発に発言できるように、
場を作っていくことが最も大切なお役目です。
困ったら、頼もしい再受講メンバーさんや自助グループの常連さんたちに
助けを求めたらいいのです。

 


私は失敗したくなくて緊張していたのでしょうね。
もちろん今もそう思っていますが、
メンバーさんを信じて、パセージリーダーになれる自分を信じていれば、
たとえ失敗したとしても、致命的な失敗はできません。
今回の目標は、マニュアル通りにする、ということです。
パセージリーダーを目指す仲間もご一緒です。
サブリーダー研修のときの優子先生の姿をモデルに、
私がよいモデルになれるように努めたいと思います。

 

今回のメンバーさんたちは、私の様々なママ友と自助グループの常連さんたちだけです。
私含めて6人の定員ぎりぎりの人数になってしまいましたが、
アットホームに楽しんでいけたらいいなと思います。
嬉しいことに、会場はとても居心地よくて、プライベートな空間です。
たくさんの方々のご協力に感謝しています。

パセージの旅を楽しんできます。

 

嗅覚型

今日は昼と夜にオンライン勉強会をしました。


氷を融かすということをぶらさげていました。
朝、あるできごとがあって、
悪臭を放つ憎しみは手離そうと決められました。

 

私は昔からすごく鼻がよくて、
たとえば古い本の香りも嗅ぎ分けられるのですが、
本の香りで早期回想を思い出すこともしばしばです。
きっと本能に近い脳の部分に刺激を与えるのでしょう。
私がこの悪臭をまとっているのだとイメージすると、
何よりも、これはダメだ、苦しいと感じたのでした。
私は美しい見た目が欲しいんじゃなかった。
芳しい香りを身につけたいと思いました。

 


そう決めてから、仲間と勉強会をしました。
私たちが一緒に学んでいくことが、お互いに勇気づけあっているんだと感じられて、
とても嬉しくて、ありがたかったです。

 

ひとつのオンライン勉強会は、野田先生のライブラリの文字起こし原稿を、
もうひとつのオンライン勉強会は、アドラーの著作を、
ゆっくりゆっくり読み進めながら、お互いの事例を出し合って話し合っています。
なので、進みはとてもゆっくりなのですが、
お互いの感じることを、学びを、じっくりと伝え合うことができます。
私たちがこのメンバーだから、こういう学びが生まれるのだなあと感じます。
信頼できる関係性を築きながら、お互いの成長を感じられることが嬉しいです。

 

こうやって仲間たちと少しずつ学び、少しずつ成長していこう。
いつか芳しい香りがきっと周りの人たちにも届くでしょう。
理屈でわからなくても、言葉にできなくても、
なぜか心地よくなるような、

そういう芳しい香りに包まれて生きたいと思います。

 

預言

 

今日は絶対的休日。


しかし絶不調。
競合的で、陰性感情の塊である。
この氷を融かすには?
いや、この氷の冷たさを味わっていたいと思う自分がいる。
心のお寺の門は閉じている。
私は自分の感情と思考にとらわれている。
そのことを、まずは気づいているということに
正の注目を与えようと思う。
少なくとも、自己欺瞞には陥っていない。


私はとても怒っているし、絶望しかけている。
いつもと同じ冗長性。
「彼らと一緒にしてほしくない」と思っている。
私は相手を屈服させたいと思っている。
こういうときに動いても、陰性感情の連鎖を生むだけだ。
だから今は、黙ろうとしている。
それは私の成長だ。


しかし私はここまでしか成長できないのか?
…そんなのは嫌だ。
だからなんとか次の手を打たなければ。
やはり氷を融かさなければ。
その方向にしか解決がないことを私は知っている。
怨憎会苦から脱するためには、この自己執着を手離さなければならない。
しかしこの憎しみを私はまだ味わおうとしている。
そんな汚いもの、早く捨ててしまえばいいのに、
私はまだ相手を滅したいと思っているから、手離さないでいる。
濁っている。
美しくないな。

 


『人間知の心理学』アルフレッド・アドラー著、高尾利数訳、春秋社P10より引用する。

「つまりこの学問(アドラー心理学:筆者補足)は、軽率に、あるいは過剰に自分の知識をひけらかすことを許さないものであり、それゆえ謙遜になるように迫るものだということである。
ついでながら、自分ができることすべてを誇ったりひけらかしたりするのは、昔ながらの子供っぽい自慢に似たようなものであり、大人にとってはそういう態度はきわめていかがわしいものなのである。
それゆえわれわれはここで、待つことと、自己自身を吟味することを提案しようと思うし、人間知に奉仕しようとしてどこかで得た知識をもって、ひとの妨げにならないように提案したいと思うのである。
さもないとわれわれは今伸びつつあるこの学問とその目的にとって、新しい障害を作り出すだけになってしまうであろう。
なぜならば、われわれはそれによって若者の軽率さーたとえ熱心なものであれーだけが生み出すような過ちを犯さざるをえなくなるであろうからである。
われわれは、よく注意を払い続け、次のことを忘れないようにしたほうがいい。
つまり、われわれが、ある判断を下す前にまず、少なくとも完全な全体像を持っていなければならないこと、そして、われわれがそれによって他者に有益なことをなしうるのだという確信があるときにだけ、それをなすべきだということである。
なぜならば、たとえ正しい判断であれ、それを誤った仕方で、しかも正しくない場所で述べることによって、多くの害をひき起こしうるからである。」


野田先生が仰っていたが、アドラーの著作は預言の書であると私も思う。
アドラー心理学を学ぶことが、そのまま私を有用な人間に成長させてくれる。
そう信じて、学び続ける。
誰がどのように学んでいても、それは私には動かせないことだ。
私にできるのは、私を動かすことだけだ。

 

不肖の弟子

今日は野田俊作ライブラリのオンライン勉強会だった。

 

午前中は長男の学校の運動会だった。

夫も始めから最後までつき合ってくれて、送迎もしてくれた。

一時期不登校になっていた長男が、楽しく元気に過ごしているところを見られて、

とても嬉しかった。

友達の話や先生の話、授業の話、休み時間の話などなど、

今はいつも楽しそうに話してくれる。

ありがたいことだと思う。

 

でも、私たち夫婦は、

多くの保護者の良いと思うこととずいぶん考えが違っているようで、

全然溶け込むこともできず、運動会を純粋に楽しむこともできないのであった。

終始不機嫌な夫だったが、知り合いと話すときは爽やかな笑顔を見せていた。

私の友だちや知り合いにも、笑顔を見せてくれた。

社交的な人だと思う。

しかし私と次男とだけになると、すっと表情が消える。

ちょっと気になったので、帰宅してから聞いてみると、

やっぱりあの雰囲気が苦手だ、好きになれないとのことで、

長男のために耐えてくれていたんだなとわかった。

あなたは楽しそうにしていたね、と言ってくれたけど、

私もけっこう頑張っていましたよ、と言って、2人で笑った。

お互いに社会適応しているな、と思った。

 

 

 

仲間が野田先生の補正項の記事について書いていたので、

久しぶりに補正項を拝読した。
http://jalsha.cside8.com/diary/2014/12/09.html

「ペテロの否認」についてだ。

イエス・キリストを野田先生のメタファーに使うのは、

良い顔をしない方々もおられるかもしれないけれど、

エスとその弟子たち、野田先生とその弟子たち、という関係性について、

私は比喩的にとらえてしまう。

恐ろしく厳しい師である。

そして、師は一般常識の世界では理解できない世界で生きておられる。

この師について行くということは、様々なものをなげうつことを選ぶ、ということだ。

世間から守ってもらえる見込みもない。

それどころか、世間から蔑まれ、後ろ指を差され、理解されることもない。

そういう中で、弟子でいること、弟子であると言うことは

勇気のいることだと思う。

 

 

全人間的な教育というものが崩壊し、

教育が要素還元主義的科学としての知識の伝達に置き換わって以降、

師弟間での技、芸、の伝承というものが未だ生き残っているところはほんのわずかだと思う。

 

師匠と弟子は、もはや大学の中でも絶滅しかかっている。

落語家の世界でも、内弟子はもうほぼ絶滅しているようだ。

師匠はみんな先生になってしまった。

弟子たちはみんな生徒になってしまった。

芸や学問に人生を賭けることなどなくなってしまった。

そんな世間の中で、

全人間的に、人間知のアドラー心理学を伝承するという師弟関係を

前提として理解してもらうことは、もう不可能なのかもしれない。

 

 

弟子なんてろくなもんじゃないと仰った先生がおられる。

その先生は学問の世界を師弟関係の中で過ごされた最後の世代だったと思う。

本当にそうだと、今私は思う。

私も、そのろくでもない弟子だ。

弟子は師の胸の内などつゆ知らず、師ではなくて愚かな自分を信じる。

弟子は師の言葉を、曲解する。

弟子は師を裏切る。裏切り続ける。

古今東西、そういうものだ。

けれども、師匠と弟子の関係には、

先生と生徒には、決して成し得ないことがあるだろう。

 

私は愚かな弟子であっても、不出来な弟子であっても、

私は弟子であることを否認はしない。

師を仰ぐことが、宗教みたいだとか贔屓だとか様々な不評は聞く。

でも仕方がない。

私はそんな世間に生まれてきてしまった。

 

私には師がいる。

そのことは、私が歴史の中に組み込まれているということを意味する。

私一人が生きていることに意味などない。

私がたとえば、このように師との関係に組み込まれて生きていて、

はじめて意味が生まれる。

そのように人生を意味づけたアドラーという人が、我々の創始の師である。

 

インプット

今日は読み終えた本が数冊。
シンポジウムの発表に使えそうな部分が見つかってほっとしている。
だいたい話したいことはまとまってきた。

 

アドラーが生きた時代の前後のドイツ圏の文化、経済、生活、思想などを知ろうとしている。
私は世界史を真面目に勉強したことがないので、
まったく知識がなくて、読む本読む本、新しい情報ばかりで目が滑っていく。
だけど人間の脳味噌はすごいもので、私の意識は記憶することができていなくても、
だいたい同じテーマの本を5冊ほど読んだあたりから、
急に文章の意味している言葉が、意識にのぼってくる。
あ、この王様知ってるわ、とか、
この時にこういうことが起こったんだよね、知ってる知ってるって、
少し親しみを覚え始める。
それからもう5冊ぐらい読むと、だいたいのことが読めるようになってくる。
今はまだ読めるようにはなっていない。
この時期が一番しんどいけれど、やがて変化が起こるはずだから
それを信じて、ひたすら読んでいっている。

 

本に書かれた知識を記憶しようとしても、
私は頭が悪いのか、1度読んだだけでは記憶できないし理解もできない。
だから飽きるほど同じテーマの本を読んでいくことで、学ぼうとしてきた。
そういえばこれは、ロシア語通訳者の米原万里が同時通訳の仕事をする準備で、
本棚の棚1段2段の量を読んで、
その仕事に関する知識を詰め込むと書いていたことと同じだ。

 

文学的な本の読み方と、
知識を得るための本の読み方とは違う。
私は断然、文学的に読むことが好きだ。
(というよりは、それよりも、 耽美的に読むことが好きだ。
 耽美的に読むのは道楽だ。それでは何も学べない。)
文学的に読むことは、著者の意図と文脈とを正確に理解していく作業だ。
知識を得るために読むことは、なんだかスポーツのような感じだ。
この読み方は苦手だけれど、
まあこれしか浅学な私が賢くなるためには方法がないようなので、
またしばらくやってみようと思う。

 


私は本当に愚かだと思う。
なぜなら、自分のことを賢いと思い込むことが多いから。
そして人を愚かだと軽蔑するから。
いけないな、と思う。
陰性感情に引きずられそうになるときは、
私の狭い了見で意見を言葉にするのではなく、
この思考と感情から一度離れて、
私のすべき勉強にうずくまろうと思う。
私のすべきことは、カウンセリングと、パセージと、シンポジウムの準備と、
それから色々な目標に向かって勉強していくことだ。
アウトプットは、インプットの量に比例する。
やがてもう少し私が賢くなるまで、私の思考には黙っておいてもらおう。